皆さんはイタリアの国歌を知っていますか?
今年は東京オリンピックが開催され、イタリアの代表チームは史上最多のメダルを獲得しました。
なのでメダルの授与のあと、国旗掲揚の際にイタリアの国歌を聞いた人も多いのではないでしょうか?
イタリアの国歌に対してどんな印象を持ったでしょうか?
もしかすると、日本の「君が代」と違って、ちょっと派手なマーチングソングっぽい国歌に聞こえたのではないでしょうか?
「イタリアの国歌っていつできたの?」
「イタリアの国歌って誰が書いたの?」
「イタリアの国歌ってどんなことを歌っているんだろう?」
今日は、こういった疑問に答えたいと思います。
本記事の内容
イタリア国歌の生い立ちについて解説します。
イタリア国歌の中で歌われている歌詞の内容を解説します。
イタリア国歌が歌われたり公式な式典で演奏されている動画をご紹介します。
この記事を書いている私は、大学でイタリア語を専門に学んだ後、イタリアに通算15年間在住し、これまで約1000件近いイタリア語通訳・翻訳案件をこなしてきたプロのイタリア語通訳です。
国家資格のイタリア語の通訳案内士(通訳ガイド)免許と実用イタリア語検定1級、CILSのC2(最上級レベル)の資格を持っています。
現在ZOOMを使用したイタリア語専門講座Studio Aria Superioreで検定受験対策の専任講師をしています。
さて、このイタリアの国歌ですが、メロディーは比較的明るく実に聞きやすいのですが、実は歌詞の中身を正確に理解するのはなかなか難しいものになっています。
というのは、このイタリア国歌の歌詞は、170年以上前に書かれたこともあって少し古めかしいイタリア語で書かれているだけでなく、長い長い歴史の中で、イタリアという地域で起こってきた様々な出来事が巧みに散りばめられているのです。
今日はそんなイタリアの国歌という、意外と知られていない歌詞の内容について少し解説してみたいと思いますので、よろしければぜひ最後までお付き合いください。
長い歴史を持つ国の国歌
イタリアの国歌は、一般にインノ ディ マメーリ(Inno di Mameli) ≒ 「マメーリの歌」と呼ばれています。
イタリア語のInnoには、歌とか賛辞とかいう意味が元々あり、一般的には、国歌はInno Nazionale(インノ ナツィオナーレ)と呼ばれます。
では、イタリアの国歌は、誰が作ったのでしょうか?
イタリアという国は、古代エトルリア文明や古代ローマ時代から脈々と続く長い歴史を持った国なのですが、このイタリアの国歌の歌詞が作られたのは、実は意外とそんなに昔のことではありません。
現在のイタリアの国歌に使用されている歌詞は、今から174年前の1847年に、ジェノヴァ出身のGoffredo Mameli(ゴッフレード マメーリ)という若い学生が書いたものなのですが、この歌詞がイタリア共和国の国歌として正式に制定されたのは、なんと第二次世界大戦後になってからなのです。
ここでサラっとイタリアの歴史をおさらいしながら、どのようにこの国歌が生まれたのか見ていきましょう。
1848年から起こったイタリアにおける革命運動(ヨーロッパの各地で起こった、保守反動の君主制国家に対する、自由主義・ナショナリズムの連鎖的反乱)の後に、ローマ共和国というものが生まれました。
それまでのイタリアは、小国に分裂し、それらの後ろ盾をしていたオーストリア、スペイン、フランスなどの外国勢力とローマ教皇領によって分断されていました。 このGoffredo Mameli(ゴッフレード マメーリ)は、このローマ共和国の防衛戦の中で、1849年に21歳の若さで亡くなってしまいました。
つまりこの歌詞は、彼が21歳で亡くなる前の、とても若い時に書いたものなのです。
この歌詞へ音楽を付けたのは、Michele Novaro(ミケーレ ノヴァ―ロ)という人で、イタリアのリソルジメント運動(イタリア統一運動)の中で、この曲はとても有名になっていきました。
しかし、1861年にイタリアが王国として統一された後、第二次世界大戦の終了までは、国歌はイタリア王家であるサヴォイア家のマーチングソングである「Marcia Reale Italiana」(マルチャ レアーレ イタリアーナ)が選ばれていました。
その曲はこちらから聞くことができます。
イタリア王国からイタリア共和国へ
第二次世界大戦後、1946年6月2日の国民投票で、イタリアはイタリア王国からイタリア共和国になりました。
その際に、Inno di Mameli「マメーリの歌」は、歌い出しにある歌詞から、親しみを持ってFratelli d’Italia「イタリアの兄弟たちよ」とも呼ばれ、仮の国歌として定められました。
その後、このInno di Mameliは学校で国歌として教えられるべきであるということが、最終的に2012年11月8日のイタリアの上院議会で法律として決められました。
イタリア国歌 イタリアの子供たちの合唱
INNO DI MAMELI
Fratelli d’Italia L’Italia s’è desta Dell’elmo di Scipio S’è cinta la testa. Dov’è la Vittoria? Le porga la chioma Ché schiava di Roma Iddio la creò. Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L’Italia chiamò.
イタリア人たちよ 我々はみな兄弟だ
いま私たちの国は目覚め、スキピオ・アフリカヌスの兜を頭につけている。
そうあのカルタゴを打ち破った古代ローマの指揮官のように。
勝利の女神ヴィットーリアはどこにいるのだ?
勝利の女神はローマの奴隷だ! (つまり、我々の国には常に勝利が運命づけられているという意味です。) お前(勝利の女神ヴィット―リア)のその長い髪を(古代ローマ時代に神が常にローマに勝利を与えてくれていた時と同じように)いま(新しい)ローマ(新生イタリア)に捧げるのだ!(なぜなら我々(イタリア)は敗北を知らない古代ローマの後継者であるからだという意味です。)
戦場にある軍隊のように一致団結しよう!
イタリアのためには死をも覚悟して
ローマのジャンニーコロの丘に立つイタリアの国家統一の立役者の一人である英雄ジュゼッペ ガリバルディの騎馬像の台座には、「ローマか死か」という彼の有名な言葉が刻まれている
語句解説
“L’elmo di Scipio” とは?
紀元前202年にZama(今のアルジェリア)でカルタゴ人のハンニバルを打ち破った古代ローマ時代の将軍スキピオ・アフリカヌスの兜のこと。
“Le porga la chioma”とは?
その長い髪を(ローマに)捧げよという意味です。
la chiomaとは長い髪の毛のことで、ここでは勝利の女神ヴィットーリアの持つ長い髪の毛を指しています。
古代ローマの女性は、自由なローマ市民は髪を長く保つことが許される一方、奴隷の身分である場合は、髪を短く切ることが求められていました。
つまり、勝利の女神がローマに対して自分の長い髪を切って捧げるということで、ローマに勝利をもたらすことを示しているのです。
勝利の女神 ヴィット―リアの姿 長い髪と翼を持っている
Noi siamo da secoli Calpesti, derisi, Perché non siam popolo, Perché siam divisi. Raccolgaci un’unica Bandiera, una speme: Di fonderci insieme Già l’ora suonò.
我々イタリア人はこれまで何世紀にも亘って他国に蔑まれてきた
それは我々が団結していなかったからだ
いまこそ団結しよう! 唯一の旗と唯一の希望のもとに
まさに今その時が来たのだ!
Uniamoci, amiamoci, L’unione e l’amore Rivelano ai popoli le vie del Signore: giuriamo far libero il suolo natìo: Uniti per Dio Chi vincer ci può?
団結しよう そして互いを慈しみ愛し合おう
そうすれば善良なる神は我々を祝福してくださるだろう
我々が生まれた国を解放することを誓おう
もし我々が神の名において団結すれば 誰が我らを打ち負かすことができようぞ!
Dall’Alpi a Sicilia Ovunque è Legnano, Ogn’uom di Ferruccio Ha il core, ha la mano, I bimbi d’Italia Si chiaman Balilla, Il suon d’ogni squilla I Vespri sonò.
アルプスからシチリアに至るまで 1176年のレニャーノの戦いの記憶が今も生きている
団結したロンバルディアの都市同盟がドイツ人皇帝バルバロッサ(神聖ローマ帝国のフリードリッヒ一世)を打ち破ったあの戦いだ
全てのイタリア人は、スペイン人皇帝カール5世(神聖ローマ帝国)の軍隊からフィレンツェを守り抜く中で、1530年に亡くなったフランチェスコ フェールッチョ指揮官と同じ勇気を持っているのだ
そしてイタリアの子供たちは、バリッラと呼ばれたジャンバッティスタ ペラッソと同じ大胆さと勇気を持っているのだ
そう、1746年にオーストリアの抑圧者たちに対して正義の反乱を起こすよう同郷人たちを鼓舞したあのジェノバの少年のように
すべての鐘の音は、パレルモで打ち鳴らされたあの鐘を思い起こさせる
そう、1282年の復活祭の月曜日(イースターマンデー)にシチリア人たちを奮い立たせフランス人たちに立ち向かわせたあの鐘だ
ローマのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂で行われたイタリア共和国記念日(6月2日)の式典の様子
Son giunchi che piegano Le spade vendute: Già l’Aquila d’Austria Le penne ha perdute: Il sangue d’Italia, Il sangue polacco Bevè col cosacco ma il cor le bruciò. Stringiamci a coorte Siam pronti alla morte L’Italia chiamò.
もはやオーストリア帝国(ロンバルディア、ヴェネト、トレンティーノを占領していた)の紋章の中に描かれた鷲は、毛をむしられた鶏のようにその羽毛を失った
そして、彼らに仕えていた者たち(外国人傭兵たち)の剣は力を失い、折れ曲がったイグサの葉のようになっている
オーストリア皇帝は、コサック人(ロシア皇帝)と同盟を組んでポーランドとイタリアを抑圧した
彼らはイタリアとポーランドという国を不和にし分断したが、彼らの飲んだ(イタリア人とポーランド人の)血は、毒となって彼らの心臓を焼き尽くすのだ
ひとつの独立した軍隊のように団結しよう!
戦いの準備はできている、そしてその戦場で、イタリアの名において命をもささげる覚悟だ!
イタリアが(我々を)呼んでいるのだ!
語句解説
“Coorte”
la coorte(コーオールテ)とは、古代ローマ時代の歩兵隊のことで、Legione(レギオン)の10分の1の兵力にあたる、約300人から600人の歩兵隊の集団を指しています。
“Bandiera, una speme”
(当時7つの国に分断されていたイタリアのための)唯一の旗と唯一の希望
“Fonderci insieme”
ひとつのイタリアという国家として団結しようという意味です。
“Per Dio”
「ああ、神様!」と叫んでいるのではなく、「神のおかげで」という意味です。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
イタリアの国歌の歴史と歌詞の意味に少し触れていただけたのではないかと思います。
歌詞の中で一貫しているのは、イタリアを支配してきた様々な外国勢力に対する抵抗と排除の歴史と、悲願のイタリア人によるイタリア国家統一を命をかけて戦ってきた人々の熱い情熱ではないかと思います。
ご紹介した動画の中でイタリアのマッタレッラ共和国大統領が式典で月桂樹の葉のリースを捧げた先には何があると思いますか?
そこにあるのは、Milite Ignotoと文字が刻まれた、第一次世界大戦で命を落とした一人の無名戦士の墓なのです。
式典が行われた巨大な白い大理石のモニュメント自体は、イタリアの国家統一を果たしたヴィット―リオ エマヌエーレ2世という初代のイタリア王国の王様に捧げられたものなのですが、このお墓の両サイドには365日24時間交代で2人の衛兵が立ち、その衛兵たちの前には永遠の灯の炎がゆらめいています。
つまり、イタリアを統一した王様とイタリアのために命を捧げたすべての兵士と人々の情熱と犠牲に想いを馳せながら彼らの行動に感謝するとともに、その偉業を称えるために今もイタリア国民は、高らかにInno di Mameli(インノ ディ マメーリ)という国歌を歌い続けているのです。
記事を最後まで読んでいただきましてありがとうございました!
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